2024年11月21日
いしか参加していなかった
わたしは、SNSのオフ会には36年ぐらい前に参加したことがある。
当時まだインターネットは今ほど誰も彼もということはなく、オフ会には、目立ったところでは、パソコン業界、文筆業界、広告業界の人ぐらいしか参加していなかった。
徳島の会社(ジャストシステム)で「一太郎」(日本語ワープロソフト)を作っているという人も普通に参加していた。
インターネットの前身?前夜?「パソコン通信」と呼ばれていた時代。
加入者数は20万人台?
1980年代後半、わたしが利用していたのはニフティサーブ。
義姉がやっていた「朝っパネ」と呼ばれていた朝日新聞社がパソコン通信を提供する「ASAHIパソコンネット」のユーザーは、もっと少なかった?
家で使っていたのは、NECのPC9801。
当時のパソコンは今みたいにアイコンを引っ張って動かすだけのものではなく、黒い画面に映る白抜き英数字をキーボードで入力してコマンドで指示した。
ワープロから何かを繋いで通信している人もいた。びっくり。(ワープロ通信?)
送信された圧縮データを解凍するには、コマンド英文字入力が必要だったような?
また、当時のフロッピーは、四角く大きく薄く、ふにゃふにゃで、それをパソコンにガチャンガチャンとゆっくり差し込んで読み込ませた。
その後は、もっと硬い小さなフロッピーもあった。
今のように丸くない。
隔世の感。
よくわからないなりに、今とはだいぶん違うので、当時のデータを見ようとしても、ツールや仕様、様式が変化しているため、その分野に詳しくないわたしには困難。
そして、、、写真は大きく伸ばしてプリントアウトして、毎日、机の上や玄関で眺めるのが一番いい。
電子はどうも、温度感、立体感がない。
とは言え、PDFで作成書類を送ってもらうと楽!以外のなにものでもない。
速い、嵩張らない、なくさない。
その後の保管は、またフォルダの山に埋もれて、もう知らん〜の世界だが。
わたしは何しろ、パソコンを使わなくなってもう8年?ぐらい経つ。
あの、立ち上げ時の時間が待てない。
別に何もすることなどないのに、時間なんかいっぱいあるのに、なぜか、イラッち。
スマホはなんでも出来て、手軽で便利で、かんたんに持ち運べる。
まさに携帯ミニマムパソコンだ。
昔、父の車の中で見かけた、肩から掛ける、ショルダータイプの大きな携帯電話がまるでウソのよう。
当時まだインターネットは今ほど誰も彼もということはなく、オフ会には、目立ったところでは、パソコン業界、文筆業界、広告業界の人ぐらいしか参加していなかった。
徳島の会社(ジャストシステム)で「一太郎」(日本語ワープロソフト)を作っているという人も普通に参加していた。
インターネットの前身?前夜?「パソコン通信」と呼ばれていた時代。
加入者数は20万人台?
1980年代後半、わたしが利用していたのはニフティサーブ。
義姉がやっていた「朝っパネ」と呼ばれていた朝日新聞社がパソコン通信を提供する「ASAHIパソコンネット」のユーザーは、もっと少なかった?
家で使っていたのは、NECのPC9801。
当時のパソコンは今みたいにアイコンを引っ張って動かすだけのものではなく、黒い画面に映る白抜き英数字をキーボードで入力してコマンドで指示した。
ワープロから何かを繋いで通信している人もいた。びっくり。(ワープロ通信?)
送信された圧縮データを解凍するには、コマンド英文字入力が必要だったような?
また、当時のフロッピーは、四角く大きく薄く、ふにゃふにゃで、それをパソコンにガチャンガチャンとゆっくり差し込んで読み込ませた。
その後は、もっと硬い小さなフロッピーもあった。
今のように丸くない。
隔世の感。
よくわからないなりに、今とはだいぶん違うので、当時のデータを見ようとしても、ツールや仕様、様式が変化しているため、その分野に詳しくないわたしには困難。
そして、、、写真は大きく伸ばしてプリントアウトして、毎日、机の上や玄関で眺めるのが一番いい。
電子はどうも、温度感、立体感がない。
とは言え、PDFで作成書類を送ってもらうと楽!以外のなにものでもない。
速い、嵩張らない、なくさない。
その後の保管は、またフォルダの山に埋もれて、もう知らん〜の世界だが。
わたしは何しろ、パソコンを使わなくなってもう8年?ぐらい経つ。
あの、立ち上げ時の時間が待てない。
別に何もすることなどないのに、時間なんかいっぱいあるのに、なぜか、イラッち。
スマホはなんでも出来て、手軽で便利で、かんたんに持ち運べる。
まさに携帯ミニマムパソコンだ。
昔、父の車の中で見かけた、肩から掛ける、ショルダータイプの大きな携帯電話がまるでウソのよう。
Posted by fruytr at
10:35
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2024年10月13日
ごと外すようになって
昭和64年(平成元年)初頭から我が家に鎮座していたカミサマが昨日、復活、復旧した。
息を吹き返した、、、とまではいかない。
うちのカミサマ、2拝2拍手1拝、、、ではない。
2拍手1拝。本来の最初の2拝は割愛、省略。
拍手を伴う参拝は、1日最大1回のみ。
「通りすがりに何回も」は、NG。
カミサマ、なにしろサブ冷凍冷蔵庫の上の、さらにその上に置いた電子レンジの上に鎮座しているもので、何度も行来して日常生活に馴染んでいる場所通渠。
そこに新しい人工榊が仲間に加わると、気になる箇所が増え、つい、親しみを覚える。
が、最初だけ、パンパンと柏手で拍手して、飽きたら知らん顔は、よろしくない。
あくまでも自主規制。
誰も知らないこのルールは、マイルールであり、なんの縛りない。
顔だけ昔から知っていた遠い親戚のような、旧友のお母さんのような、そういうかんじのカミサマと、「はじめまして、いえ、初めてではないですよね」というノリで、お友達になっていそうな気もするが、あまり深入りするとよくない。
カミサマを喜ばせるのはよいが、怒りを買ってはいけない。
カミサマは力があり威厳がある一方で、畏れがある。
サワラヌカミニタタリナシ、、、だが、この場合はちょっと傾向が違う。
ほどほどの距離感がよいのは、人間関係と同じ。
あまりにも心の底からどっぷりは、わたしの信条には合わない。
カミサマを何人も抱えて、一つのカミサマに依存せずリスク分散という手もあるが、わたしはしない酒店式公寓。
しかし、このカミサマ。えらく高いところに鎮座している。
とても手が届かない。(言葉通り)
邪魔にはならないけれど、存在を忘れる。
場所としては方角を含め、設置人の姑のお眼鏡に適っている(はず、たぶん)。
今日は恐る恐るカミサマのお社(お家)をそっと開けてみた。
トントントンと扉をノックした。
が、なかなか開かない。
無理やり開けたら扉が壊れそう。
それはめんどくさすぎるので、そっと優しく扱った。
が、なかなか扉は固い。
扉を少し開けると、中に朱色のキンキラした布が見える。
それを取り出そうとするが、扉の金具が曲がりそう。
で、指先ではなく、頭を使うことにした。
よくよく見てみると、扉はかたちだけ、表面だけのお飾りで、扉が付いている板そのものを扉ごと外すようになっている。
シルバニアファミリーの二階建てのお家のよう。
外す時に、お社は、冷蔵庫の上、電子レンジの前に横たわらせる。
ちょっと、すみませんねーー、こんな場所で。
(こぼれているソースとか付着したらどうしよう、、、)
しかし、よく見るとなんと埃をかぶっていることか。
35年分の埃は、お社に降り積もる、まるで粉雪のよう。
風情があるなあ、、、などと感慨に耽っている場合ではない。
横たわったお社を横目に中から取り出した、神々しい物体をガン見する。
覆われている布は、よくお寺の中で見かけるような朱色に神々しい金糸の入ったもの。
その布をすぽっと外すと、中に何やら固いものが入っていた。
カミサマの名前が書かれた木札。(白木の位牌のように自立するスタンドタイプ)
社は二つあるので、カミサマも二つ。
別々のカミサマ。
二つとも知っている。
一つは夫の実家の地に古来からある氏神様。
もう一つは、40年以上前に一度姑たちと訪れたことがある、結構行きにくい地にある、知る人ぞ知る神社の神様大型banner
。
なるほど、いかにも姑チョイスである。
自分が信仰している神様をセットアップ・パッキングしている。
神様たちは、お社に詰め込まれたまま、うちの古い前の家から新築の家へ、建て替え中は仮住まいの家へ、あっちに行ったりこっちに来たりと、待遇も足元も悪い中、連れて来られたわけだ。
しかも、さっき、初めて、それこそ、本当に初めて、対面した。
顔はなく、名前だけだが。
息を吹き返した、、、とまではいかない。
うちのカミサマ、2拝2拍手1拝、、、ではない。
2拍手1拝。本来の最初の2拝は割愛、省略。
拍手を伴う参拝は、1日最大1回のみ。
「通りすがりに何回も」は、NG。
カミサマ、なにしろサブ冷凍冷蔵庫の上の、さらにその上に置いた電子レンジの上に鎮座しているもので、何度も行来して日常生活に馴染んでいる場所通渠。
そこに新しい人工榊が仲間に加わると、気になる箇所が増え、つい、親しみを覚える。
が、最初だけ、パンパンと柏手で拍手して、飽きたら知らん顔は、よろしくない。
あくまでも自主規制。
誰も知らないこのルールは、マイルールであり、なんの縛りない。
顔だけ昔から知っていた遠い親戚のような、旧友のお母さんのような、そういうかんじのカミサマと、「はじめまして、いえ、初めてではないですよね」というノリで、お友達になっていそうな気もするが、あまり深入りするとよくない。
カミサマを喜ばせるのはよいが、怒りを買ってはいけない。
カミサマは力があり威厳がある一方で、畏れがある。
サワラヌカミニタタリナシ、、、だが、この場合はちょっと傾向が違う。
ほどほどの距離感がよいのは、人間関係と同じ。
あまりにも心の底からどっぷりは、わたしの信条には合わない。
カミサマを何人も抱えて、一つのカミサマに依存せずリスク分散という手もあるが、わたしはしない酒店式公寓。
しかし、このカミサマ。えらく高いところに鎮座している。
とても手が届かない。(言葉通り)
邪魔にはならないけれど、存在を忘れる。
場所としては方角を含め、設置人の姑のお眼鏡に適っている(はず、たぶん)。
今日は恐る恐るカミサマのお社(お家)をそっと開けてみた。
トントントンと扉をノックした。
が、なかなか開かない。
無理やり開けたら扉が壊れそう。
それはめんどくさすぎるので、そっと優しく扱った。
が、なかなか扉は固い。
扉を少し開けると、中に朱色のキンキラした布が見える。
それを取り出そうとするが、扉の金具が曲がりそう。
で、指先ではなく、頭を使うことにした。
よくよく見てみると、扉はかたちだけ、表面だけのお飾りで、扉が付いている板そのものを扉ごと外すようになっている。
シルバニアファミリーの二階建てのお家のよう。
外す時に、お社は、冷蔵庫の上、電子レンジの前に横たわらせる。
ちょっと、すみませんねーー、こんな場所で。
(こぼれているソースとか付着したらどうしよう、、、)
しかし、よく見るとなんと埃をかぶっていることか。
35年分の埃は、お社に降り積もる、まるで粉雪のよう。
風情があるなあ、、、などと感慨に耽っている場合ではない。
横たわったお社を横目に中から取り出した、神々しい物体をガン見する。
覆われている布は、よくお寺の中で見かけるような朱色に神々しい金糸の入ったもの。
その布をすぽっと外すと、中に何やら固いものが入っていた。
カミサマの名前が書かれた木札。(白木の位牌のように自立するスタンドタイプ)
社は二つあるので、カミサマも二つ。
別々のカミサマ。
二つとも知っている。
一つは夫の実家の地に古来からある氏神様。
もう一つは、40年以上前に一度姑たちと訪れたことがある、結構行きにくい地にある、知る人ぞ知る神社の神様大型banner
。
なるほど、いかにも姑チョイスである。
自分が信仰している神様をセットアップ・パッキングしている。
神様たちは、お社に詰め込まれたまま、うちの古い前の家から新築の家へ、建て替え中は仮住まいの家へ、あっちに行ったりこっちに来たりと、待遇も足元も悪い中、連れて来られたわけだ。
しかも、さっき、初めて、それこそ、本当に初めて、対面した。
顔はなく、名前だけだが。
Posted by fruytr at
11:38
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2024年09月06日
いうちに眠りに落ち
昨夜のTV番組、司馬遼太郎 生誕100年 雑談 「昭和」への道。
この番組について、わたしとの関わりは昨日、ブログでアップしたばかり。
なので、気合いを入れて画面を見つめる。
また寝てしまってはシャレにならない。
・・・が、まるで麻酔を打たれたかのように、ふわぁ〜っと知らないうちに眠りに落ちていた。
司馬遼太郎さんの高尚なお話、語り口と、わたしの脳波が(睡眠導入に)ピタっと合うのだろうか乳癌症狀。
まるで魔法にかかったかの如く。
だが、最後のまとめ部分には目が覚めていた。
大事なところだけ起きているのかも。
ある意味、要領が良い。
ちなみに。
わたしは、自分が書きたいことと、読む側が読みたいこととが乖離している。
もっとわたしは忖度すべき。
ではあるものの暴走、我が道を行く。
話は変わるが、「歩く会」に本日、参加した。
ただただ黙々と脇目もふらず歩くだけ。
途中休憩もなければ、ランチタイムもない。
だらだら歩いていると、遅れて1人だけになってしまい、進む道がわからなくなり迷子になるbb牛奶敏感。
なので、うんと遠くても前を歩く参加者の後を付いて行く。
参加費用は、保険料プラスα。500円。
参加者160人超え。
主催者によっては300円だったりする。
2時間歩き通して11キロ。
疲れた。
足首に、mont-bellで購入した立派な靴で靴擦れが出来て歩く度に擦れて痛い。
咲き誇るバラをスマホで撮っていると遅れる。
楽しそうな家族連れやカップルが、臨時開設店舗やテラスでスィーツを買ったりしているのを尻目に、ああ、アイスクリーム食べたいなあ、いいなあ、、、家族や個人で来ていたら、自由にフリープランで楽しめるのに、、、と、日差しがきつくなる中、腕まくりをして歩行速度を上げる。
しかしまあ、楽しいか?といえば、そんなことはない。
ある人に強く誘われたので参加したに過ぎない。
1人で歩くより大勢で歩くほうが、寂しくないとか。
何故歩く会に参加するかというと、家にじっと閉じこもっていても何もすることがないそうだ。
歩くという行為は健康維持には欠かせないとのこと。
別に楽しくて歩いているわけではない。
健康のため、というのは良いが、他の理由はずいぶんネガティブである。
わたしも断りきれずに参加したが、あと何回参加したら断れるだろう?と、決して前向きではない日本移居。
あまり好きではないことは続かない。
17年前にスポーツジムに通っていたが、自分に鞭打って頑張って、嫌だけれど健康のために行っていた。
何年か後にやめた時は、とても嬉しかった。
やはり無理をしていた。
この番組について、わたしとの関わりは昨日、ブログでアップしたばかり。
なので、気合いを入れて画面を見つめる。
また寝てしまってはシャレにならない。
・・・が、まるで麻酔を打たれたかのように、ふわぁ〜っと知らないうちに眠りに落ちていた。
司馬遼太郎さんの高尚なお話、語り口と、わたしの脳波が(睡眠導入に)ピタっと合うのだろうか乳癌症狀。
まるで魔法にかかったかの如く。
だが、最後のまとめ部分には目が覚めていた。
大事なところだけ起きているのかも。
ある意味、要領が良い。
ちなみに。
わたしは、自分が書きたいことと、読む側が読みたいこととが乖離している。
もっとわたしは忖度すべき。
ではあるものの暴走、我が道を行く。
話は変わるが、「歩く会」に本日、参加した。
ただただ黙々と脇目もふらず歩くだけ。
途中休憩もなければ、ランチタイムもない。
だらだら歩いていると、遅れて1人だけになってしまい、進む道がわからなくなり迷子になるbb牛奶敏感。
なので、うんと遠くても前を歩く参加者の後を付いて行く。
参加費用は、保険料プラスα。500円。
参加者160人超え。
主催者によっては300円だったりする。
2時間歩き通して11キロ。
疲れた。
足首に、mont-bellで購入した立派な靴で靴擦れが出来て歩く度に擦れて痛い。
咲き誇るバラをスマホで撮っていると遅れる。
楽しそうな家族連れやカップルが、臨時開設店舗やテラスでスィーツを買ったりしているのを尻目に、ああ、アイスクリーム食べたいなあ、いいなあ、、、家族や個人で来ていたら、自由にフリープランで楽しめるのに、、、と、日差しがきつくなる中、腕まくりをして歩行速度を上げる。
しかしまあ、楽しいか?といえば、そんなことはない。
ある人に強く誘われたので参加したに過ぎない。
1人で歩くより大勢で歩くほうが、寂しくないとか。
何故歩く会に参加するかというと、家にじっと閉じこもっていても何もすることがないそうだ。
歩くという行為は健康維持には欠かせないとのこと。
別に楽しくて歩いているわけではない。
健康のため、というのは良いが、他の理由はずいぶんネガティブである。
わたしも断りきれずに参加したが、あと何回参加したら断れるだろう?と、決して前向きではない日本移居。
あまり好きではないことは続かない。
17年前にスポーツジムに通っていたが、自分に鞭打って頑張って、嫌だけれど健康のために行っていた。
何年か後にやめた時は、とても嬉しかった。
やはり無理をしていた。
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15:58
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2024年07月21日
人の特徴であ
蝶ブログでは今まで散々、「わたしは友達がいない」と書いて来た。
これは嘘ではない。
ちょっと知っている人は、「知り合い」「知人」と表現した。
こちらから親近感を一方的に抱く人にも、「顔見知り」と書いたhairless 脫毛好唔好。
友人、特に、親友など、1人もいない。
なので、虚偽ではない。
が、近頃の記事には、「友達」が、ちらほら登場する。
新しい人に出逢ったわけではない。
かつて、「知人」と表現した人を、格上げしたまで。
といっても、1人ではなく、複数。
知人から友人に、わたしの中で、移行した。
付き合い方の距離はまるでそれまでと同じ。
急接近したわけでもなんでもない。
こちらから、こころを開くと、友達になれるようだ。
わたしは、孤独が好きなわけでもなんでもなく、たんに単独行動が好きなだけ助聽器比較。
大勢でワイワイガヤガヤは苦手ではあるが。
孤高では決してない。
孤高にも色んな意味がある。
協調性を欠き、迎合しない面もある。
集団行動には適さない。
人に合わせすぎるわたしは、自分の意見を言えないが、集団を離れると自分軸で考え、動く自己中だから、それは一つの個人の特徴である。
付き合いが苦手だったけれど、多少、他者と自分との折り合いがついたのだろう。
だが、元々、人間嫌いではない。
好ましいと感じる人と、お近づきになりたい。
なので、強く広く張り巡らされていたバリアは少し取れてきたようだ。
人間的なあたたかみ、ぬくもりを感じる人と、感性を共有したい。
シャープな尖った人には、研ぎ澄まされた感覚は興味深く、インスパイアされる。
外側から観察して眺める。
内側にいる人だと、ピリピリビリビリして、ゆったりこころ穏やかにはなれない。ぶつかる。
暑苦しいのは苦手だが、存在感がある温度は好ましい。
そういう気持ちで、近頃は周りと接しはじめている。
歳が行くと、人間関係が煩わしい、という傾向の、逆行だ。
歳が行ってからこそ、緩やかな人間関係を欲する。
多分、自分をそれなりに確立出来たからだろう。
怖い顔をした、おじいさんは、ほっておいて、にこやかなおじいさん、おばあさんに吸い寄せられるように、近寄って行く。
太陽と北風。
北風より、ぽかぽかお日様がいい。
とは言うものの、ここのところ体温を上回る酷暑、ヒーハーヒーハーいっている。
ネックウォーマーならぬ、ネッククーラーを巻いて、冷房の効いた場所へ足を運んでいるbtl 眼袋槍。
ただし、冷房対策ストールをカバンの中に忍ばせて。
これは嘘ではない。
ちょっと知っている人は、「知り合い」「知人」と表現した。
こちらから親近感を一方的に抱く人にも、「顔見知り」と書いたhairless 脫毛好唔好。
友人、特に、親友など、1人もいない。
なので、虚偽ではない。
が、近頃の記事には、「友達」が、ちらほら登場する。
新しい人に出逢ったわけではない。
かつて、「知人」と表現した人を、格上げしたまで。
といっても、1人ではなく、複数。
知人から友人に、わたしの中で、移行した。
付き合い方の距離はまるでそれまでと同じ。
急接近したわけでもなんでもない。
こちらから、こころを開くと、友達になれるようだ。
わたしは、孤独が好きなわけでもなんでもなく、たんに単独行動が好きなだけ助聽器比較。
大勢でワイワイガヤガヤは苦手ではあるが。
孤高では決してない。
孤高にも色んな意味がある。
協調性を欠き、迎合しない面もある。
集団行動には適さない。
人に合わせすぎるわたしは、自分の意見を言えないが、集団を離れると自分軸で考え、動く自己中だから、それは一つの個人の特徴である。
付き合いが苦手だったけれど、多少、他者と自分との折り合いがついたのだろう。
だが、元々、人間嫌いではない。
好ましいと感じる人と、お近づきになりたい。
なので、強く広く張り巡らされていたバリアは少し取れてきたようだ。
人間的なあたたかみ、ぬくもりを感じる人と、感性を共有したい。
シャープな尖った人には、研ぎ澄まされた感覚は興味深く、インスパイアされる。
外側から観察して眺める。
内側にいる人だと、ピリピリビリビリして、ゆったりこころ穏やかにはなれない。ぶつかる。
暑苦しいのは苦手だが、存在感がある温度は好ましい。
そういう気持ちで、近頃は周りと接しはじめている。
歳が行くと、人間関係が煩わしい、という傾向の、逆行だ。
歳が行ってからこそ、緩やかな人間関係を欲する。
多分、自分をそれなりに確立出来たからだろう。
怖い顔をした、おじいさんは、ほっておいて、にこやかなおじいさん、おばあさんに吸い寄せられるように、近寄って行く。
太陽と北風。
北風より、ぽかぽかお日様がいい。
とは言うものの、ここのところ体温を上回る酷暑、ヒーハーヒーハーいっている。
ネックウォーマーならぬ、ネッククーラーを巻いて、冷房の効いた場所へ足を運んでいるbtl 眼袋槍。
ただし、冷房対策ストールをカバンの中に忍ばせて。
Posted by fruytr at
14:25
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2024年06月16日
たいことは光り輝くのだろ
昨日、頑張って家のハナミズキの花びら掃除をしたのに、今朝はまた、はらはら花びらが散っていた。(※トップ写真)
これなら昨日掃除せずに、ある程度、散り切るまで待って、まとめて一気にしたほうが能率が良い。
家の前の公道にも、派手に花びらが散らかり落ちている。
今まで、あまり気にしなかったのだが、公共の道路に、私邸に咲く木の花びらが散り落ちるとなると、迷惑かも、と気が気でない。
風が吹くと、どこかに吹き飛んで行くと思われるがHong Kong Scholarship。
花びらも、傍迷惑な個人ゴミか?
今まで気にならなかったのは、目が見開いていなかったのだろう。
ちなみに。
旅のほぼ準備は出来たが、激しいマリッジ・ブルーならぬジャーニー・ブルー。
いつも旅行の前は落ち込むが、今回は特別、元々、深く落ち込んでいるところに更に旅前ブルーが重なっている。
なぜ、こんなにブルーなんだろう。
バチが当たる。
まるで、手が込んだご馳走を前に、胸焼けや吐き気がして、一口も手をつけないかのごとく。
この心理は、自分でも分析できない。
まだ自然に満ちていない、万を期していないのに、押し出されるような感じか。
おそらく、満を持して準備オッケーとなった頃には、事情が許さず、旅に行けないことだろう香港投資移民條件。
だからといって、無理やりのような感じで行く。
贅沢者であり、愚か者である。
今、行かずに、後の行きたい時には行けないのは、もっと愚かかも知れないが。
制約、制限や障害物があってこそ、実現できない事態は、やりくりして努力してクリアさせると、やりたいことは光り輝くのだろう。
ところで。
他の方のブログ記事を読む。
やたら長く8000文字近かった。
わたしごときの頭脳では、集中力が続かない。
良いこと、役に立つことが書かれているのに、好奇心減退か。
また別の、お気に入り登録しているブログ。
更新されると、自動的に自分の編集画面の下半分に記事と写真が現れる。
尊敬してやまない人生の先輩、高齢の主婦の鑑の方なのだが、、、。
ものすごく仰々しいタイトルで、いったい、どんな一大事かと思うと、、、気が抜けるほど、どうってことのない、当たり前の、何を今更的な内容だった。
騙されるわけでも、悪意があるわけでも、損をするわけでもない。
だが、、、大丈夫??と、ふと首を傾げた。
これまでの内容からしてみると、明らかに、濃さや重大性が違う。
小さな小さなことに気づきを得て、幸福感を得るのはとても良いことだ。
むしろオススメ、絶賛。
わたしなども、その小さな小さな発見を長々しく仰々しく文字に並べて納得、感激、自己満足しているのだから、同類のようなものだ。
だが、、、わたしが深く尊敬申し上げるあの方が、、、あの内容の気づきかあ、、、と驚いた。
ではあるが、決して他人を傷つけるものではない。
各人、自分を幸福に導く要因は人それぞれ、千差万別。各人が持っている。
客観的に見て、誰もが羨むような光り輝く黄金の人生を歩んで来られた方が、不満ばかりをツラツラ書くのではないのだから、良いではないか。
とは言え、、、
(これは比喩表現ではあるが)まるでノーベル賞に輝いた人が、幼児のようなことで喜んでおられるのを読んで、、、うーーーん、、、複雑な心境になった。
大丈夫??
いえ、小さな幸せを感じる毎日を過ごせる努力は素晴らしい。
とは思うものの、わたしのブログもそうなんだろうなあ、、、と、我を振り返る客観的な目になった。
ブログを継続して読むと、その人の自己満足の推移がわかるDermes 脫毛。
何ごとも変わっていくということだ。
これなら昨日掃除せずに、ある程度、散り切るまで待って、まとめて一気にしたほうが能率が良い。
家の前の公道にも、派手に花びらが散らかり落ちている。
今まで、あまり気にしなかったのだが、公共の道路に、私邸に咲く木の花びらが散り落ちるとなると、迷惑かも、と気が気でない。
風が吹くと、どこかに吹き飛んで行くと思われるがHong Kong Scholarship。
花びらも、傍迷惑な個人ゴミか?
今まで気にならなかったのは、目が見開いていなかったのだろう。
ちなみに。
旅のほぼ準備は出来たが、激しいマリッジ・ブルーならぬジャーニー・ブルー。
いつも旅行の前は落ち込むが、今回は特別、元々、深く落ち込んでいるところに更に旅前ブルーが重なっている。
なぜ、こんなにブルーなんだろう。
バチが当たる。
まるで、手が込んだご馳走を前に、胸焼けや吐き気がして、一口も手をつけないかのごとく。
この心理は、自分でも分析できない。
まだ自然に満ちていない、万を期していないのに、押し出されるような感じか。
おそらく、満を持して準備オッケーとなった頃には、事情が許さず、旅に行けないことだろう香港投資移民條件。
だからといって、無理やりのような感じで行く。
贅沢者であり、愚か者である。
今、行かずに、後の行きたい時には行けないのは、もっと愚かかも知れないが。
制約、制限や障害物があってこそ、実現できない事態は、やりくりして努力してクリアさせると、やりたいことは光り輝くのだろう。
ところで。
他の方のブログ記事を読む。
やたら長く8000文字近かった。
わたしごときの頭脳では、集中力が続かない。
良いこと、役に立つことが書かれているのに、好奇心減退か。
また別の、お気に入り登録しているブログ。
更新されると、自動的に自分の編集画面の下半分に記事と写真が現れる。
尊敬してやまない人生の先輩、高齢の主婦の鑑の方なのだが、、、。
ものすごく仰々しいタイトルで、いったい、どんな一大事かと思うと、、、気が抜けるほど、どうってことのない、当たり前の、何を今更的な内容だった。
騙されるわけでも、悪意があるわけでも、損をするわけでもない。
だが、、、大丈夫??と、ふと首を傾げた。
これまでの内容からしてみると、明らかに、濃さや重大性が違う。
小さな小さなことに気づきを得て、幸福感を得るのはとても良いことだ。
むしろオススメ、絶賛。
わたしなども、その小さな小さな発見を長々しく仰々しく文字に並べて納得、感激、自己満足しているのだから、同類のようなものだ。
だが、、、わたしが深く尊敬申し上げるあの方が、、、あの内容の気づきかあ、、、と驚いた。
ではあるが、決して他人を傷つけるものではない。
各人、自分を幸福に導く要因は人それぞれ、千差万別。各人が持っている。
客観的に見て、誰もが羨むような光り輝く黄金の人生を歩んで来られた方が、不満ばかりをツラツラ書くのではないのだから、良いではないか。
とは言え、、、
(これは比喩表現ではあるが)まるでノーベル賞に輝いた人が、幼児のようなことで喜んでおられるのを読んで、、、うーーーん、、、複雑な心境になった。
大丈夫??
いえ、小さな幸せを感じる毎日を過ごせる努力は素晴らしい。
とは思うものの、わたしのブログもそうなんだろうなあ、、、と、我を振り返る客観的な目になった。
ブログを継続して読むと、その人の自己満足の推移がわかるDermes 脫毛。
何ごとも変わっていくということだ。
Posted by fruytr at
11:47
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2024年04月29日
わたしの家に鎮座してい
人工榊(さかき)が我が家に届いたため、神棚の一部を掃除した。
せっかく榊を飾るのだから、入れる神具もキレイに洗って乾かした。
人工榊のため、水に触れると錆びるらしく、榊立てに水を入れるのはNG。
更に、人工榊は曲げたり伸ばしたり、自在に形を作り変えられる存貨管理系統。
面白い。
ウィッグ(人工ヘア、かつら)みたいなものか。(→違う)
そして、お久しぶりの神棚とご対面。
何年ぶりだろう?
現在、住んでいる家を新築して以来だから、23年ぶりか。
埃も被るはずだ。ごめんね、カミサマ。
カミサマ、ほったらかし、ネグレクト。
ではあるが、虐待はしていない。
受け入れたまま定位置に鎮座しているわけだから、雨風には晒されていない。
廃棄されても文句は言えない状態。(誰が誰に文句を言う??)
(ちなみに、廃棄する時は、現職の神主さんがいる神社などで炊き上げてもらわなければならないとか)
そもそも無神論者のわたしの家に、なぜ神棚があるか?
しかも、建て替える前の古い家の時、昭和の時代から(かれこれ35年前)、わたしの家に鎮座している商務禮品。
建て替えと共に、神棚も一時一緒に移動して、また新築の家に収まった。
この神棚、何が入っているのか、何を祀っているのかも知らない。
わかっているのは、誰かのお下がりではなく、まったく新品の状態で(神具店で購入されて)うちにやって来た。
買ったのは、姑。
(この流れは、安易にご想像いただけると思うが)
息子(夫)の家に置く、息子一家の幸せと安泰を願ってのものだ。
善意のかたまり。悪意など1ミクロンもない。
だが、設置された息子の妻は、、、無神論者。(他の宗教の信者ではないだけ、摩擦が少ないからマシ)
その時、断ればよいものを。
「お義母さん、わたしは無神論者なので、へんに扱いを間違っては神聖な神様を冒とくすることにもなりかねないので、神棚は辞退させていただきます」
と、なぜ、言わなかったのだろう。
当時のわたし。
まったく何にも考えていなかったのだ。
時限爆弾でもない限り、「置いてね」と持って来られたら、すんなり考えなしに置いた工料測量。
孤児を受け入れる里親のごとく。
特別に過激な、悲劇を生む新興宗教でもない、神代の昔から日本人には身近に慣れ親しんでいる神様なので、拒絶反応は起きなかった。
ただ、受け入れたからには、ホームステイ先のホストファミリーのように、ある程度の世話をしなければならない。
にもかかわらず、鍵は持たせ、門限なし、友達を連れて来るのも友達のところに泊まるのもよし、長期留守も認め放題の超放任ホストファミリーは、いかがなるものか。
信頼をベースに緩やかに繋がっているかんじか。
せっかく榊を飾るのだから、入れる神具もキレイに洗って乾かした。
人工榊のため、水に触れると錆びるらしく、榊立てに水を入れるのはNG。
更に、人工榊は曲げたり伸ばしたり、自在に形を作り変えられる存貨管理系統。
面白い。
ウィッグ(人工ヘア、かつら)みたいなものか。(→違う)
そして、お久しぶりの神棚とご対面。
何年ぶりだろう?
現在、住んでいる家を新築して以来だから、23年ぶりか。
埃も被るはずだ。ごめんね、カミサマ。
カミサマ、ほったらかし、ネグレクト。
ではあるが、虐待はしていない。
受け入れたまま定位置に鎮座しているわけだから、雨風には晒されていない。
廃棄されても文句は言えない状態。(誰が誰に文句を言う??)
(ちなみに、廃棄する時は、現職の神主さんがいる神社などで炊き上げてもらわなければならないとか)
そもそも無神論者のわたしの家に、なぜ神棚があるか?
しかも、建て替える前の古い家の時、昭和の時代から(かれこれ35年前)、わたしの家に鎮座している商務禮品。
建て替えと共に、神棚も一時一緒に移動して、また新築の家に収まった。
この神棚、何が入っているのか、何を祀っているのかも知らない。
わかっているのは、誰かのお下がりではなく、まったく新品の状態で(神具店で購入されて)うちにやって来た。
買ったのは、姑。
(この流れは、安易にご想像いただけると思うが)
息子(夫)の家に置く、息子一家の幸せと安泰を願ってのものだ。
善意のかたまり。悪意など1ミクロンもない。
だが、設置された息子の妻は、、、無神論者。(他の宗教の信者ではないだけ、摩擦が少ないからマシ)
その時、断ればよいものを。
「お義母さん、わたしは無神論者なので、へんに扱いを間違っては神聖な神様を冒とくすることにもなりかねないので、神棚は辞退させていただきます」
と、なぜ、言わなかったのだろう。
当時のわたし。
まったく何にも考えていなかったのだ。
時限爆弾でもない限り、「置いてね」と持って来られたら、すんなり考えなしに置いた工料測量。
孤児を受け入れる里親のごとく。
特別に過激な、悲劇を生む新興宗教でもない、神代の昔から日本人には身近に慣れ親しんでいる神様なので、拒絶反応は起きなかった。
ただ、受け入れたからには、ホームステイ先のホストファミリーのように、ある程度の世話をしなければならない。
にもかかわらず、鍵は持たせ、門限なし、友達を連れて来るのも友達のところに泊まるのもよし、長期留守も認め放題の超放任ホストファミリーは、いかがなるものか。
信頼をベースに緩やかに繋がっているかんじか。
Posted by fruytr at
16:47
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2024年03月21日
られたように傷つけら
人付き合いの難しさ。
これが大の苦手で、わたしは家族&ほんの一握りの近親者以外とは付き合わない。
家族は固い結束があるので、それに安心しているため、あまり、それぞれの個人にズカズカ踏み込まない牙周炎。
子育て期は、口出しするが、成人になり自立したら、皆さん、無罪放免。
両手でしっかり抱き抱えていた手を離す。
その代わり、各人、自分たちの巣を築き、(お一人様も含む)、緩やかな結束に変わる。
なので、わたしはこころ乱されることなく、安心、安泰の日々を過ごしている。
昨日の記事のKさんなどは、もはや人付き合いというよりは、降ってきたイベント。雨あられ嵐。
頻繁だったり、ハードだったりすると、負担だが、十分楽しませていただいている。
他にも、一生に一度か二度ぐらいしか、または一度も会わないかも知れないと思われる親友もいる。
(勝手に一方的にわたしが親友認定している。一種の心友)
まあそれは、それとして、、、
そういう、生のお付き合いが至って不得意なわたしなのであるが紮肚、、、
悲しいかな、趣味の関係で、必ず人と接することを余儀なくされる。
で、理解不能な状態に追い込まれる。
相手の言動に非常に傷つく。
相手は、わたしが何故傷ついているのか、全くわからない。
身に覚えもなければ、意識もない。
いちいち、あなたのここに、わたしは傷つきました、と毎度毎度、言っていたら、親睦が深まるどころか、ケンカになる。
いちいち、口に出して言わなければわからないような、意識自体に問題がある。
相手は、常に思ったことを口にして、その度にわたしは、グサグサ鋭利な刃物で切りつけられたように傷つけられる。
口に出さないでください、というのは正しいのか。
胸の中で思っていることをただ口に出さないだけ、というのは、常識としてマナーとしてはある。
親しき仲にも礼儀あり。
だが、「言うな」はわかるが、「胸の中で思うな」は、無理がある。
思ってしまうものは、思ってしまう。
外に出さないだけ。
相手は常に思ったことを口に出すから、わたしは、常に傷つく。
仮に口に出さなかったら?
傷つかないが、そんなこと思っているのかと、気もつかない毛孔閉塞。
口に出す前に、言うべきか、言わないべきか、一旦考えて、検疫通過、映倫通過になれば、口に出してもオッケー、というわけにはいかないのか?
言い方を熟考して、相手が衝撃を受けたり嫌な気にならないように、優しく説くとか、誘導するとか、そんな風には出来ないものか?
それは、相手に望みすぎだろうか?
コミュニケーションの難しさを痛感する。
思うな!って、ほんとに、難しいし、無理なこと。
思わせないようにしようにも、自分は自分で今まで生きてきた道があるから、そう簡単には変えられない。
お互い、自分を貫き通そうとすると意地の張り合いになり、やがて破綻する。
折り合いをつけ、折衷案で妥協しなければならない。
でもいつもわたしは、負ける。譲歩させられる。
誰とでも負ける。
これが大の苦手で、わたしは家族&ほんの一握りの近親者以外とは付き合わない。
家族は固い結束があるので、それに安心しているため、あまり、それぞれの個人にズカズカ踏み込まない牙周炎。
子育て期は、口出しするが、成人になり自立したら、皆さん、無罪放免。
両手でしっかり抱き抱えていた手を離す。
その代わり、各人、自分たちの巣を築き、(お一人様も含む)、緩やかな結束に変わる。
なので、わたしはこころ乱されることなく、安心、安泰の日々を過ごしている。
昨日の記事のKさんなどは、もはや人付き合いというよりは、降ってきたイベント。雨あられ嵐。
頻繁だったり、ハードだったりすると、負担だが、十分楽しませていただいている。
他にも、一生に一度か二度ぐらいしか、または一度も会わないかも知れないと思われる親友もいる。
(勝手に一方的にわたしが親友認定している。一種の心友)
まあそれは、それとして、、、
そういう、生のお付き合いが至って不得意なわたしなのであるが紮肚、、、
悲しいかな、趣味の関係で、必ず人と接することを余儀なくされる。
で、理解不能な状態に追い込まれる。
相手の言動に非常に傷つく。
相手は、わたしが何故傷ついているのか、全くわからない。
身に覚えもなければ、意識もない。
いちいち、あなたのここに、わたしは傷つきました、と毎度毎度、言っていたら、親睦が深まるどころか、ケンカになる。
いちいち、口に出して言わなければわからないような、意識自体に問題がある。
相手は、常に思ったことを口にして、その度にわたしは、グサグサ鋭利な刃物で切りつけられたように傷つけられる。
口に出さないでください、というのは正しいのか。
胸の中で思っていることをただ口に出さないだけ、というのは、常識としてマナーとしてはある。
親しき仲にも礼儀あり。
だが、「言うな」はわかるが、「胸の中で思うな」は、無理がある。
思ってしまうものは、思ってしまう。
外に出さないだけ。
相手は常に思ったことを口に出すから、わたしは、常に傷つく。
仮に口に出さなかったら?
傷つかないが、そんなこと思っているのかと、気もつかない毛孔閉塞。
口に出す前に、言うべきか、言わないべきか、一旦考えて、検疫通過、映倫通過になれば、口に出してもオッケー、というわけにはいかないのか?
言い方を熟考して、相手が衝撃を受けたり嫌な気にならないように、優しく説くとか、誘導するとか、そんな風には出来ないものか?
それは、相手に望みすぎだろうか?
コミュニケーションの難しさを痛感する。
思うな!って、ほんとに、難しいし、無理なこと。
思わせないようにしようにも、自分は自分で今まで生きてきた道があるから、そう簡単には変えられない。
お互い、自分を貫き通そうとすると意地の張り合いになり、やがて破綻する。
折り合いをつけ、折衷案で妥協しなければならない。
でもいつもわたしは、負ける。譲歩させられる。
誰とでも負ける。
Posted by fruytr at
11:18
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2024年03月21日
と意気込んでおられ
が、、、迷ったところで決めるのは自分。
誰がなんと言おうと、最終的に決めるのは自分。
「あなたのためを思って真剣に考えてアドバイスしているのに、ちっとも取り入れないじゃないの隱適美 價錢。
無駄な労力と時間で疲弊するのは不毛で虚無感を生じるから、あなたには何も言わない」
そういう流れもあると思う。
女性同士の観劇、映画、コンサート、おしゃべりやお茶、ランチ、スィーツは楽しいだろう。
興味や興奮を分かち合い感想を述べ合い、大好きなものを食べながら、ついでにプライベートもちょこっと漏らす。
とても素敵な充実した時間だろう。
だから友達は貴重だ、、、
と、書いたらその通りで何の反論もなく全力で賛同する。
今から見つけよう、そんな友達。
でも、それって還暦過ぎた独身の人が、今から結婚相手を見つけよう!と力んでいる感覚に近いように思うpet ct費用。
あるネットで見かけた方、、、結婚経験無しの還暦過ぎ、初めて家を出て、今から結婚相手(しかも30歳下の女性)を見つけて楽しい家庭を築くんだ!と意気込んでおられる。
しかし、これはほぼ妄想に近いのでは?
通常はリアルな現実を客観的に見て、自分の状況に合った相手とマッチングする。
でないと、「条件に合致する該当者なし!」と検索結果が出る。
それは結婚相手の場合だけど。
ちなみに、
わたしの友人探しに関しては、今は別に渇望しているわけではないので、今は今しか出来ないことに情熱を傾けて没頭している。
そして、、、人を寄せ付けないのは、自分自身のせいである前列腺肥大治療。
ではあるものの、自然体、自然に任せている。
誰がなんと言おうと、最終的に決めるのは自分。
「あなたのためを思って真剣に考えてアドバイスしているのに、ちっとも取り入れないじゃないの隱適美 價錢。
無駄な労力と時間で疲弊するのは不毛で虚無感を生じるから、あなたには何も言わない」
そういう流れもあると思う。
女性同士の観劇、映画、コンサート、おしゃべりやお茶、ランチ、スィーツは楽しいだろう。
興味や興奮を分かち合い感想を述べ合い、大好きなものを食べながら、ついでにプライベートもちょこっと漏らす。
とても素敵な充実した時間だろう。
だから友達は貴重だ、、、
と、書いたらその通りで何の反論もなく全力で賛同する。
今から見つけよう、そんな友達。
でも、それって還暦過ぎた独身の人が、今から結婚相手を見つけよう!と力んでいる感覚に近いように思うpet ct費用。
あるネットで見かけた方、、、結婚経験無しの還暦過ぎ、初めて家を出て、今から結婚相手(しかも30歳下の女性)を見つけて楽しい家庭を築くんだ!と意気込んでおられる。
しかし、これはほぼ妄想に近いのでは?
通常はリアルな現実を客観的に見て、自分の状況に合った相手とマッチングする。
でないと、「条件に合致する該当者なし!」と検索結果が出る。
それは結婚相手の場合だけど。
ちなみに、
わたしの友人探しに関しては、今は別に渇望しているわけではないので、今は今しか出来ないことに情熱を傾けて没頭している。
そして、、、人を寄せ付けないのは、自分自身のせいである前列腺肥大治療。
ではあるものの、自然体、自然に任せている。
Posted by fruytr at
11:14
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2024年02月04日
外れているという見方も出
今までの自分を振り返る。
誰の目にもわかるような、ちゃんとしたことは何一つしていない。
自分がしたいようにしてきた。
ある趣味仲間のAさん。仕事はリタイア。
今は仕事をしていなくても、過去の日本を築いてきたのだから、堂々としているべきだ、と胸を張るSophos endpoint。
仕事をし、家族を養い、子供を独立させた。
わたしは、、、
「仕事をし、家族を養い、子供を独立させた」人物の補佐役をしただけ。
自分独自では何も成していない。
存在意義があるのか?
ある。
ということにしておこう。
が、男尊女卑の社会では女性の地位は低いと感じる。
(今はあからさまな男尊女卑は、なりをひそめているとは思うが、家庭内の女性は社会的進出から外れているという見方も出来る)
自分独自に目を向けると、、、
後悔はないにしても、胸を堂々と張れるか?
何をしてきた?
社会的に評価されるようなことは何ひとつないxero。
まあいいか。
自分が満足なら。
今頃、成果がどうこう蒸し返すのは、愚の骨頂。
不安のない今があれば花丸。
何を自己否定する必要があろうか。
ちなみに、政府は家庭の女性に介護、育児を押し付け、女性の家庭内奉仕を「日本の美徳」とまで崇めたてた。
介護保険や育児手当など、お金がかかることは、家庭の主婦を煽て宥め無料でやらせようとした。
そうは行くものか。
美徳を履き違えている。
それなら、ご高齢の政治家殿方が先手を切って、実際に先頭に立ってやるべき。
自分は家事も育児も介護もしないで、家庭のご婦人方を「日本の美徳」という呪文で、無料の労働を押し付けた。
何、それ?
わたしは、昔アタマのジイさんが全く考えを変えずに、当たり前のごとく女性に押し付けて平気な態度を見ると、無性に腹が立ち不快になる。
ブチギレそうになる。
それはそうと。
話を戻す。
当時、自分が出来る限りのことをやってきたんだから成果がどうであれ、いいのではないか。
今日の自分が楽しくなければ、その積み重ねがなければ、明日の自分も楽しくない持續進修基金課程。
やんわり自己肯定しよう。
誰の目にもわかるような、ちゃんとしたことは何一つしていない。
自分がしたいようにしてきた。
ある趣味仲間のAさん。仕事はリタイア。
今は仕事をしていなくても、過去の日本を築いてきたのだから、堂々としているべきだ、と胸を張るSophos endpoint。
仕事をし、家族を養い、子供を独立させた。
わたしは、、、
「仕事をし、家族を養い、子供を独立させた」人物の補佐役をしただけ。
自分独自では何も成していない。
存在意義があるのか?
ある。
ということにしておこう。
が、男尊女卑の社会では女性の地位は低いと感じる。
(今はあからさまな男尊女卑は、なりをひそめているとは思うが、家庭内の女性は社会的進出から外れているという見方も出来る)
自分独自に目を向けると、、、
後悔はないにしても、胸を堂々と張れるか?
何をしてきた?
社会的に評価されるようなことは何ひとつないxero。
まあいいか。
自分が満足なら。
今頃、成果がどうこう蒸し返すのは、愚の骨頂。
不安のない今があれば花丸。
何を自己否定する必要があろうか。
ちなみに、政府は家庭の女性に介護、育児を押し付け、女性の家庭内奉仕を「日本の美徳」とまで崇めたてた。
介護保険や育児手当など、お金がかかることは、家庭の主婦を煽て宥め無料でやらせようとした。
そうは行くものか。
美徳を履き違えている。
それなら、ご高齢の政治家殿方が先手を切って、実際に先頭に立ってやるべき。
自分は家事も育児も介護もしないで、家庭のご婦人方を「日本の美徳」という呪文で、無料の労働を押し付けた。
何、それ?
わたしは、昔アタマのジイさんが全く考えを変えずに、当たり前のごとく女性に押し付けて平気な態度を見ると、無性に腹が立ち不快になる。
ブチギレそうになる。
それはそうと。
話を戻す。
当時、自分が出来る限りのことをやってきたんだから成果がどうであれ、いいのではないか。
今日の自分が楽しくなければ、その積み重ねがなければ、明日の自分も楽しくない持續進修基金課程。
やんわり自己肯定しよう。
Posted by fruytr at
16:05
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